サンフランシスコからベイブリッジを渡った対岸に、今も故郷と慕っているアメリカ人の家族がいます。英語が全く話せなかった時代から、ずっとお世話になり『Mom』『Dad』と呼び長期休みがとれるたびに通っていたお家です。
Momはプレーリードッグについて探求したいと言う私の熱意に、一肌も二肌も脱いでくれました。そしてついに、プレーリードッグの第一人者と呼ばれるリンダ女史との対面を果たします。休みの度に通っていた場所がサンフランシスコからサンフランシスコ→テキサスへのダブルコースに変わり、いつしか季節に応じてサンフランシスコかテキサスを行き来する贅沢な年間プランが出来上がります。身の程知らずなこの旅を可能にするために、日本では休みなく必死に昼夜を問わず働きました。それでも足りず、親に頭を下げて借金を・・・そんな事もありました。
野生のプレーリードッグの生態調査に始まり、保護区への移動や捕獲など。次々に出現する課題に、必要な物も増えていきます。現像してみないと仕上がり具合がわからなかったアナログのカメラ機器や大量のフィルムに一万円札が何枚も飛び、レンタカーや保険を加えた滞在費は次第に高額になっていきました。そんな中、とびきりのサプライズをもらいます。リンダ女史宅母屋のすぐ脇に私たち専用の小屋が建てられたのです。最寄りのモーテルから、敷地内のトレーラーハウスへと変わっただけでも嬉しかったのに、このサプライズには言葉にならないほど歓喜しました。リンダ女史と過ごす時間が長くなった事が一番ですが、金銭的に楽になる安堵感もかなり大きかった事を覚えています。
話が少し逸れて行きそうなので、軌道修正します。
日本で錯綜するプレーリードッグの情報を求めて渡米した私でしたが、アメリカでも情報のの混乱は見られ、野生種の情報がそのままペットのプレーリーに活用出来ると言う訳もなく、課せられた課題は資料整理に始まり文献の翻訳、植物の成分分析や糞尿の採取に至るまで、膨大な物になっていました。私個人の力にも限界が見え、日本獣医畜産大学(現在の日本獣医生命科学大学)の動物栄養学教室に1997年〜2006年まで研究生として在籍させて頂きました。
3日と開けずに届くプレーリードッグについての悲痛な相談。個々に対応しているだけでは追いつかなくなり、プレーリードッグの適正飼養を目指す会として1997年に【Cynomys】を立ち上げました。
プレーリードッグの学名である【Cynomys】は【サイノミス】と読みます。この読みをそのまま会の名前にすると学名と区別がつきにくくなってしまう事や、綺麗な日本語の音に読み替えたかった事もあって【シノミス】と読む事にしました。
現在の24の正会員さんの中には【シノミス】時代から支えて頂いている方々が存在します。
長い長い時間を共有させて頂き、本当に有難い限りです。
今なおプレーリードッグをこよなく愛し続けている方々ばかりですが、市場には出回り難くなってしまったプレーリードッグは、いつか姿を消してしまうのかもしれませんね。
プレーリードッグの話についても、後々別のタイトルでお話しさせて頂きます。
=続=
0コメント